私は、医師永田勝太郎先生の診療助手として浜松医科大学病院、湯河原厚生年金病院、九段下クリニック、武蔵野病院、千代田国際クリニック5つの病院で学ぶ機会を与えられてきました。
思い出す言葉は…
「浜松にすぐに来なさい」
「適応と限界を知りなさい」
「上医となって未病を治しなさい」
「目的は全人的医療、方法として統合医療がある」…など数多くの言葉が刻まれました。
当時、まだ国家資格を取得していない私の手紙を読まれた永田先生から「意欲があるならすぐに来なさい」と言われ、急いで浜松に行きました。強い引力に引き込まれるように、気付くと自然と研究生として働くようになっていました。
臨床の現場ではデータを解析したり、事前の問診をとるなど医師と同様の扱いをしてもらい、力の全てを振り絞って臨んでいた事を思い出します。
4時間かけて通ったいた浜松医科大学病院では、カンファレンスが夜の10時を過ぎてしまい翌朝、神奈川へ戻る事もよくありました。
また湯河原の病院では"患者中心"の外来が熱を帯び長引きくことがしばしば、病院側とよくぶつかっていた事も…
それだけ時間をかけて患者さんと向き合われていた永田先生のことを今でも思い出します。
その後は、きまって奥湯河原の温泉に行き湯船に一緒に浸かりました。
そんな時でも先生の口から愚痴などは一切なく、面白い話しをたくさん聞かせてもらいました。学生運動時代、経済学者であったお父様の反対を押し切って、経済学部から医学部を志しを変えたお話をして下さったこは今でも鮮明に憶えています。
それくらい永田先生の言葉には力があって、すっと腑に落ちてしまう説得力のようなものがあり、常にお話がドラマティックでした。
私の初めての学会発表の時は、しっかり準備してきた発表原稿vol.17でも、発表前夜に永田先生からお電話があり、添削と加筆修正の指導が入るなど、出来のわるい弟子に対しても熱心に沢山のことを教えて下さいました。
そんな私に「島田くんは医師にならなくてもいい、日本一の鍼灸師、治療者になりなさい」「僕が君だったらそうするよ」この言葉は、あの頃劣等感に苛まれていた私を救ってくれた言葉であり、それが励みとなり今でも真剣に目指しているものとなっています。
そんな私にとっての基礎と未来を与えてくれた永田勝太郎先生が令和4年11月11日にご逝去されました。
叱ってくれる時はとても怖くても、そこには何時も愛がありました。ユーモアがあって、どんな人も魅了し、ファンにしてしまう。
もう会えないなんて、今でも信じられません。
毎年夏にお送りしてきた天然鮎。お礼のお電話を今年の9月に永田先生から頂いた時の話。
「今年はお父さんが釣ったのかい?」
「いつもは父が釣ったものを送っていましたが、今年のは僕が釣ったものになります」
「そうか、今年も立派な鮎だったよ」
「島田くんが釣ったのか…そうか」
私の父は"息子に釣りを教えたい"と実存を転換したことで、五年生存率5%以下と言われた癌で片肺になっても 15年目を生きています。その間に心筋梗塞で大手術をしても屈する事がなかったことも、まさに永田先生の教えがあったからだといえます。
最後にして下さった鮎の話は、まるで最後の指導であったと思えてなりません。
「息子の島田が釣りを継承して、ようやく私に送れるようになったんだな。鮎を見て分かったぞ」…と聞こえてきます。
慢性的な痛みや人生の苦しと戦う人にとって、また医師や医療従事者にとって、偉大な人物を失ってしまったと感じています。
当院では今後も永田勝太郎先生のご意思を受け継ぎ、全人的医療を中心に患者さまに豊かな人生を創ってもらうため、自己実現を果たしてもらえるよう、治療者として在り方を磨き努力し続けていければと思います。